2011/10/18


晩秋である。せっかくきれいに色づいた紅葉だったが二日前からの強風で、いいところはすっかり散ってしまった。九月は妙に暑く雨の日が続いていたが、今月はさすがに寒くなっている。それでも天気予報によればまだ例年より暖かいそうだ。そんなこととは関係なくありがたいことに作物は実った。家内の畑も、それなりに収穫の秋をむかえている。日照時間が短いにもかかわらず、カボチャは写真の通りである。
東北関東大震災とフクシマから7ヶ月経った。相変わらず私は義援金さえ送っていない。世の中の人々が誰しも何かをしなければと懸命な中で、これはなんだ、と考えている。以前もどこかで書いたような気がするが、すべからく流行とか多数がすることにまずは距離を置く。何かをすることはいつも善なのではない、むしろ何もしないでおくことのほうが結果として対象のためになることもある、というのが私の生理的かつ本能的な反応である。
「不謹慎」ということがこの震災との関連で言われているが、そういう点では私は典型のような気がする。なんといっても私はあの東北関東に具体的な関係を持つ人がほとんどいない。そうである以上あの震災について何かをしなければならぬとは考えられないのである。「なにかをしなければならぬ」ということは従って一般的な倫理の問題となる。これがもし隣の友人の家族があの地域の学校に行っていて亡くなった、となればこれは何を置いてもお悔やみに駆けつける。きっと涙さえ出ることだろう。震災に遭った人々一般には、こういう感情は申し訳ないが私は持てないようなのである。そうである以上私は「何かをして」はいけないと自分に言い聞かせる。嘘だからだ。義務だからだ。それはもはや人間同士の関係とは言えない。ある抽象的な問題となってしまう。そこから何らかの行動へ向かわせるものは何かと言えば、正義感とか連帯感とか、憐憫である。しかしそういう動機で「何かをする」ひとびとを、私はけなすつもりはない。また、反対もしない。そういう倫理はほめられこそすれ、おとしめられる何ものもない。私とは違うだけだ。
自分が何もしないから、国家に対しもっとしっかりやれということになる。八つ当たりかもしれない。ただ、もともと国家は国民の生命と財産を守るのが第一の使命であるのだから、こんなことが起これば誰に何を言われなくとも最高の対応をしていなければならない、はずである。しかし実態は逆である事が判明している。国会議員も官僚も実は高額の報酬を得ていながら、本来の仕事をしていない。今回の震災のようなことも含めて、ありとあらゆる事態に対応できる体制を整えていなければならないのに、いつもことが起きてからなんとか委員会やら審議会を作ってアリバイ作りにいそしむ。国民など本当はどうでもよく、私腹を肥やすことと権力を握ることが人生、という人種である。危機対応能力など期待することは間違いなのである。これひとつを見ても、こんな連中が国家を動かしていると思うとやりきれない。
何事であれ国家の言うことなどまともに聞いていると、つぎつぎはしごを外されることになる。日々自分の目と耳と勘を磨いておかなければならない。できるだけ税金を払わぬようにしよう。これしか奴らに抵抗するすべはない。