引っ越しまで

拓成は帯広の市街地から南西へ約40キロ、日高山脈の直下にあります。十勝幌尻岳やエサオマン戸蔦別 岳の登山口に当たります。 ログハウスを建てる土地を探しているという噂がそれとなくひろがって、ある日この拓成で既に建てている人がいることを知らされました。早速行ってみると、から松の両側を落とした太鼓挽きでやっていました。私が考えていた自然の丸太を使う方法ではありませんでしたが、まるまるの自然の中でやる姿が参考になり、何度か手伝いがてら遊びに通 いました。十勝では当時最初のログハウスでした。私と同年代の安井さんという方で、手伝いの原さんという人と二人で建てているのでした。奥さんと小さな男の子もひとり、仮住まいの小さな小屋で生活していました。

あちこちさがしてきて拓成がかなり理想に近いと思い、ある日偶然見学に来ていた地元の方に相談したところ、離農跡地を何カ所か紹介してくれることになりました。いろんな条件に照らして拓成に決めました。妻も畑ができそうだと賛成しました。引っ越すことにした年の冬、妻の両親がその離農跡を見に来たのですが、反対はしませんでした。どうせすぐに逃げ出すに決まってるのだから、ぐらいの気持ちだったのでしょう。この時私29歳、妻28歳、長女は1歳6ヵ月。 なんとも危なっかしいと今では思いますが、私は土地が決まったことで、 これでようやく「本当の生活」ができるような気がして有頂天になっていました。

勤めていた塾を二月一杯でやめ、三月から拓成の廃屋を住めるようになおし始めました。なにせ八年間空家になっていたところですから、すさまじい状態です。そのうえ大工の経験もない者がどうやってなおしたら良いか、最初は途方にくれていましたが地元の方たちの助言やお手伝いもいただき、雪が解ける頃には目処がたつまでになりました。その頃になると、今度はどんな仕事をするのかと盛んに聞かれるようになりました。移住することに夢中で何も考えていなかったものですから、これも地元の方が見つけてきてくださり、四月末から造林の仕事につくように取りはからってくださったのでした。

拓成の廃屋をなおしに通うという頃、妻が次女を早産しかかり入院してしまいました。長女の世話ができなくなり、やむなく妻の実家に預けることになりました。妻が退院するまでということで当たり前のように連れていきました。なんともはた迷惑な話です。もう自分のことしか考えられないのですが、その先にある生活の魅力が勢いをくれていたのでしょう。まわりの人達もその勢いに負けてくれたのだと思います。1ヵ月ほどして長女を迎えにいった時、私のことをすぐには父親とわからず、まるで「客が来た」というように義母に告げにいったのは、ショックでしたが、、、。

引っ越しは4月28日ごろでした。何日か前に妻は次女出産のため入院したので、義母が手伝いに来てくれていました。塾の教え子も5~6人興味半分で来てくれました。どこから調達してきたのか思い出せませんが、2トントラックで2往復して運びました。手伝いの生徒を送って帰ったきた時は既に夕暮れです。火の気がなくては寒い、ということで急きょ薪ストーブを据え辺りのがらくたを燃やしました。電気工事は当分先になると言われてましたから、照明はローソクをつけました。義母と長女とわたし、市街地とちがう闇が迫る中でようやく一息ついたのでした。運び込んだだけの荷物の間で「あったかいねー、いいねー」と何度も言っていました。