拓成事始め

 

古い写真を見てみます。 あかく錆びていますが一応トタンのかかった屋根と後付けのモルタル壁で、「北の国から」の黒板五郎さん一家が入った、つたのからまる廃屋より多少はましな状態です。 カーテンの開け具合が泣かせますね。 まだ若かった(あたりまえです)妻のこんな環境に対するささやかな抵抗といいますか、お洒落だったのかもしれません。 右側にいる長女の様子は何だか戦後の浮浪児のような雰囲気ですが、あっという間にこの状況になじんでいきましたから子どもの適応力には驚きます(そうするしかなかった)。

上の写真左手前に見えるのは、水汲みに使っていた集乳缶です(なぜ水汲みをしなければならなかったかについては後でお話します)。かつて酪農家が牛乳の出荷に使っていました。妻に抱かれている次女は病院から帰ってきてからしばらくは「天然の産湯」を使うことになったのでした。 後ろの山やまわりの木が既に蒼くなっているところを見ると5月下旬でしょう。雪がとけて初めて見るこの家のまわりは、 写真からは良くわかりませんが、以前住んでいた人の捨てた農機具の残骸や大型ゴミが散乱していて荒涼としたものでした。 傾きかけた小さな小屋がいくつもあります。どれにも正体不明のがらくたが詰め込まれていました。 この後、見えている短い草が猛然と伸び始め、特にヨモギが背丈をこえるほどになりこの家はまるで緑の海にのみ込まれた様相を呈していくのです。

私はこれまでひたすら前だけ見て生きてきました。振り返るのは訳もなく許しがたいことと考えてきました。意志として生きるのだから、後ろを見てはいけない、見てしまえばそこで終わってしまうような気がしていました。ですからこの話を書いていると「もう長くはないね」と妻に冷やかされます。そうかもしれません。しかし今は、確認することがとても大事に思えるのです。

引っ越しの翌日、まずは病院へ妻と生まれた次女を迎えに行きます。塾で同僚だった青木君がなにかと手伝いに来てくれましたので、義母と長女を託しました。なにせ熊のいるところと聞かされていましたし、長く空家になっていたところですから冬眠から醒めた熊に認知されていないだろうというような滑稽な危惧がありました。さすがに義母は年の功でそんなことに動じる様子もなく、テキパキ荷物を片付けるのでした。次女を抱いて拓成に戻った妻はまだ水仕事はできませんので、義母が替わりにしてくれることになっていました。拓成二日目、荷物もあらかた片付き雑巾を使う段になっていよいよ水を出すことになりました。前の人が使っていた井戸が「生きている」と町内の人が教えてくれていたうえ、ポンプのための発電機まで貸してくれてありました。手回しでエンジンをかけてポンプをまわし、バケツに何杯か汲んだところで水は突然赤茶けてしまい、そしてぼこぼこいったかと思う間もなくあがってこなくなってしまいました。きっとポンプが古くてダメなのだろうということで、翌日また町内の人に調べてもらうと涸れているという結論でした。なんだか目の前が真っ暗になりましたが、当座は近くの川から水を汲んで使うようにということで、その方から先に話した今は使わない集乳缶 を借りました。1本に40リットルほど入ります。5本で1日のことに大体まにあいます。ただし風呂は一度水を張ると1週間取り替えられませんでした。水汲みはかなりの重労働で、まして仕事に行くようになってからは夕方帰宅してからですから、ただでさえへとへとになっている身体にはとても無理でした。川の水はもともといろんな微生物やゴミが入っていますから、一見きれいでもすぐに汚れます。幸いといったらいいのか夜の照明はロウソクですから、この風呂の汚れはほとんど見えません。雰囲気あるよねえ、と、むしろ楽しんでいたようです。そして生まれたばかりの次女も同じ風呂で洗ってやるしかありませんでした。

こうして電気、電話、水道のない生活がこの後2ヵ月あまり続くことになります。